都美セレクショングループ展2019『星座を想像するように-過去、現在、未来』 1
都美セレクションを見てきた。
7人展はかなり見応えのあるものだった。
その中でも私が特に目を見張ったのは3人。
その3人について、私なりの拙い感想を書いて行こうと思う。
加茂昴。
彼は見えないものを描く、自分の生まれる前に起きたものを描くという作業をしている。
見えないものとは放射性物質であり、生まれる前に起きたものとは広島の原爆である。
見える見えない、過去と現在、自己と他者。
3つの境界を絵画によって超えようとする。
彼にとって絵筆は境界を超えるための道具だ。
それはまるでアンテナのように見えぬ語らぬなにものかを受信し、静かに傾聴と共感をし、繋いで行く。
彼は被爆者自身の筆による原爆体験の絵を模写した。
それを展示する際、原作者に許諾を得るために手紙を書いたそうだ。
高齢なのにも関わらず、足を運んでくれた原作者のおばあちゃんは喜んでくれたという。
亡き父がこんな絵を書いていたと手紙で初めて知ったという息子さんがやってきたという。
おばあちゃんの絵に込めた思いは加茂さんに届き、加茂さんによって父と息子の間にそっと事実のバトンが渡された。
模写は優れた感受性を持つ者にとっては、単なる模写という意味合いの枠には収まらない。
これを追体験というと、どこか他人事な響きを含み、私は違う、と感じる。
追体験というとき、それはあくまで自分の主観の枠を出ないままに、相手の体験を体験した気になるに過ぎない。
この場合は間主観なのだ。
相手の主観と自分の主観が重なり合うあわいを間主観という。
自分がありながら、相手を確かに感じられる、だから伝わる、繋がる、境界を超えられる。
自分がなくなってしまえば、それは超えたことにはならず、単に飲み込まれたに過ぎない。
その場合は伝わるでも繋がるでもない。
彼の絵は冴え冴えとし、優しくそこにある。
境界を超えるとき、風が凪いだ次元と次元の切り替わり、そんな一瞬を鮮やかに描く。
見ているだけでそこに私も誘われる。
過去でも現在でも未来でもない場所。
グループ展のタイトル通り、星座のように、通常は結ばれることのない点と点を結ぶ絵。