都美セレクショングループ展2019『星座を想像するように-過去、現在、未来』 2

2番目はスクリプカリウ落合安奈。

彼女はルーマニアと日本というふたつのルーツを持つ。

生まれながらにふたつの世界に繋がれた存在だ。

美術館内講堂で行われたクロストークで、最も私が引き込まれた話をしていた。

まだ若い彼女だが、ふたつの世界のあわいにいるからこそ、「普通の世界」、それはいわゆる普通の人が「単一だと考えている世界」との乖離、解離に悩み、考えてきたことがうかがえた。


伝わる、繋がるには、前記事の加茂さんの絵の感想にも書いたが、境界を超えなくてはならない。

レイヤーが違う、層が違うと、放った言葉や表現は届かずに墜落するか、あるいは強すぎて暴力的になるか、だ。

彼女はある意味、あらかじめ、そのようなことを感じやすい場所に生まれてきた。

だからこそ、その境界突破の平和的解決法を芸術に求めて、作家となったのだろう。

二つの世界、層の違う世界を繋ぐために。


彼女のIntersectという作品はヨーロッパと日本で見つけた幻燈機を使用している。

テイストの全く違うイラストが浮かび上がる灯りが様々なスピードで重なり、すれ違ってゆく。

これを衝突と取るか、調和と取るかは個人の見方で違うと彼女は書いていた。

私はニアミスと感じた。

確かに文字通り、灯りは重なり合うのだが、混ざらない。

互いに何も起きていないかのように。


加茂さんの作品とはその点が対照的だ。

彼女はすれ違うだけなことをあえて形にすることで繋ごうとする試みをしているのだ。

これは二つの違う世界がはっきりと感じられていないとできない。

そういう世界の全景を捉えるには、より遠くにいく必要がある。

重なり合わせるために。

その遠いところからの視点を持てる人は少ない。

遠いところに行くには精神的体力が必要なのだ。

だから、精神的体力のない大抵の人は二つの違う世界が見えていてもそれを嘆くだけで、実際に生きる世界は狭く諦めに満ちている。

けれども、彼女は違う。


日常の生活の中でも、通常、私たちはすれ違うばかりだ。

そのすれ違いにどれだけ気がつくかは個人差がある。

私は10人と会っても、今日はただの1人とも"会えなかった"と感じることがある。

そう、私たちは実のところは会っていても会ったとは言えない、ただすれ違っただけのことがあまりに多い。

肉体が存在する層で出会っても、心が存在する層で出会えなければ、会ったことにはならないからだ。

それでもそこから、誰かに出会いたい、伝えたいと望み、手を伸ばすことをやめない自分と世界とを、自分だけの世界にとどまることなく、あえて遠く離れて結ぶ試みが彼女の作品だ。

諦めと絶望を勇気と希望に変えるように。

これは人間の苦しみとも、人間らしさともいえる、生きる上で普遍的なテーマなのかもしれない。

都美セレクショングループ展2019『星座を想像するように-過去、現在、未来』 1

都美セレクションを見てきた。

7人展はかなり見応えのあるものだった。

その中でも私が特に目を見張ったのは3人。

その3人について、私なりの拙い感想を書いて行こうと思う。


加茂昴。

彼は見えないものを描く、自分の生まれる前に起きたものを描くという作業をしている。

見えないものとは放射性物質であり、生まれる前に起きたものとは広島の原爆である。

見える見えない、過去と現在、自己と他者。

3つの境界を絵画によって超えようとする。


彼にとって絵筆は境界を超えるための道具だ。

それはまるでアンテナのように見えぬ語らぬなにものかを受信し、静かに傾聴と共感をし、繋いで行く。

彼は被爆者自身の筆による原爆体験の絵を模写した。

それを展示する際、原作者に許諾を得るために手紙を書いたそうだ。

高齢なのにも関わらず、足を運んでくれた原作者のおばあちゃんは喜んでくれたという。

亡き父がこんな絵を書いていたと手紙で初めて知ったという息子さんがやってきたという。

おばあちゃんの絵に込めた思いは加茂さんに届き、加茂さんによって父と息子の間にそっと事実のバトンが渡された。


模写は優れた感受性を持つ者にとっては、単なる模写という意味合いの枠には収まらない。

これを追体験というと、どこか他人事な響きを含み、私は違う、と感じる。

追体験というとき、それはあくまで自分の主観の枠を出ないままに、相手の体験を体験した気になるに過ぎない。

この場合は間主観なのだ。

相手の主観と自分の主観が重なり合うあわいを間主観という。

自分がありながら、相手を確かに感じられる、だから伝わる、繋がる、境界を超えられる。

自分がなくなってしまえば、それは超えたことにはならず、単に飲み込まれたに過ぎない。

その場合は伝わるでも繋がるでもない。


彼の絵は冴え冴えとし、優しくそこにある。

境界を超えるとき、風が凪いだ次元と次元の切り替わり、そんな一瞬を鮮やかに描く。

見ているだけでそこに私も誘われる。

過去でも現在でも未来でもない場所。

グループ展のタイトル通り、星座のように、通常は結ばれることのない点と点を結ぶ絵。

長いお別れを観て

自分が自分であること、とはどのようなことか。

「我思う、故に我あり」とデカルトは言った。

これはまず「思う対象」があり、だからこそ「思う自分」がいると「気がついた自分」がいたという話。

だからこそ、人は「思う対象」が理解できなくなると「自分」すらもわからなくなってゆくのである。

認知症や本物の統合失調症(本物と書くのは誤診が多いから)というのはまさに脳が壊れて行き「思う対象」が理解できなくなるがゆえに、自分もわからなくなる病気だ。

長いお別れとはそんな認知症の父と家族の7年間を描いた映画のタイトル。

それを観てきた。


父は認知症が進むにつれ「なんだか遠いんだ」と口にする。

そして、しょっちゅう「家に帰る」と家にいるのに言い出す。

大好きな読書、慣れ親しんだ本、家族、自分の身体。

あらゆる対象がどんどん遠くなってゆくことは「旅に出て、家から離れていく」感じに近いものなのかもしれない。

センチメンタルジャーニーなどは物理的に自分の身体を移動させることで、自分の心を奪った何かから心を引き離し、身体に心を戻すためのものだけれど、認知症は逆だ。

心を身体からゆっくりゆっくり離す、決して戻ることのない最後の旅だ。


そんな父に、それぞれに誰かとの「心の遠さ」を抱えて悩む家族たちはぽつりぽつりと自分の話をする。

「遠いのはさみしいね」と長女の息子が言う。

「つながれない」と次女が言う。

「うまくできない」と長女が言う。

できたばかりのガールフレンドに悩む孫。

恋人にいつも振られてしまう次女。

家庭がうまくいっていない長女。

なにもかもがわからなくなっている圧倒的な遠さを持つ父にだからこそ、話せることがあるのだ。


もちろん、父は話を正確には理解はできない。

大脳新皮質では。

大脳新皮質とは言葉や統合的思考や判断を司る、進化の歴史的には新しい脳の部分だ。

しかし、生きている限りは古い脳と呼ばれる部分が担当する反応や反射はまだ動いている。

実際、一番、最後の長女の話には父は何も言えない、言わない。

しかし、スカイプ通話の画面の向こうの長女が泣きながら話していると、父もだんだんと泣きはじめる。

それは理解を超えた部分、自分を超えた部分、無私無我の境地で泣いているのだ。

本能として、目の前の人のかなしみやつらさに感応して。

それはもはや、父娘だから、ではない。

人と人だから、という境地だ。


父は厳格な人だった。

校長先生にまでなるくらいに。

娘たちには自分と同じように教職について欲しかったらしいことがシーンの端々から感じられる。

だからこそ、娘たちはうまくいかない家庭に悩むことや料理人を目指すことを「父みたいに立派ではない」と感じている。

けれど、エゴとも呼べる思いや欲やプライドすらもなくなった父は料理人を目指す次女を真剣な眼差しで立派だと言う。

泣く長女と共に泣く。

孫に漢字マスターと呼んでもいい?と聞かれても好きにすれば?と言う。

昔だったら怒ったりしたかもしれないのに。


人は近いものはよく見えないし、わからない。

例えばそれは家族、例えばそれは当たり前に電車が今日も来ること。

だからこそ、自分の期待通りではないといらつき、悲しみ、呆れ、あきらめたりもする。

でも、人は不思議と何処かの国で電車が止まったニュースを聞いても、全く知らない人同士が揉めていても「みんな大変だな」と冷静に思うくらいだ。

遠いからこそ、冷静に受け止められ、優しくなれるのだ。

自分から遠ければ遠いほど、心理的な投影が働かないから、優しさだけが残る。

だから、遠い優しさは条件つきではなくなってくる。

遠いからこそ純粋で、無垢な優しさとなる。

そして、それは不思議と人の心に迫る近さと強さがある。

逆に、近い優しさはしてあげたんだからしてくれて当然でしょ?みたいな傲慢さと欲にまみれている。

それは不思議と人に断絶感を与える。


父が長いお別れのなかで家族に最後にプレゼントしたものは遠いからこそ近く強く優しい、人が原初的に持つ愛だったのだと私は思う。

それは自分が誰だかわからなくても、目の前の人が誰だかわからなくても、人が持ちうる、そして、与えることしかできない愛なのだ。


監督は「湯を沸かすほどの熱い愛」と同じ。

私はこの2作しか観たことはないが、同じテーマで制作しているようだ。

この人もまた、ある種の遠さを抱えた人なのだろうと私は思う。

こういう人はたまにいる。

そして、私もまた、そんな気配を観測できるくらいには遠さを抱えている。

彼がなぜこうした作品を作るかにはおそらくふたつの意味がある。

物語自体に含まれたものを伝えたいから。

数少ない遠さを抱えた人たちに、遠いから作れる作品、遠いから出来ることもあると伝えたいから。

きっと伝わっている。

素敵な映画だったなあ。