長いお別れを観て
自分が自分であること、とはどのようなことか。
「我思う、故に我あり」とデカルトは言った。
これはまず「思う対象」があり、だからこそ「思う自分」がいると「気がついた自分」がいたという話。
だからこそ、人は「思う対象」が理解できなくなると「自分」すらもわからなくなってゆくのである。
認知症や本物の統合失調症(本物と書くのは誤診が多いから)というのはまさに脳が壊れて行き「思う対象」が理解できなくなるがゆえに、自分もわからなくなる病気だ。
長いお別れとはそんな認知症の父と家族の7年間を描いた映画のタイトル。
それを観てきた。
父は認知症が進むにつれ「なんだか遠いんだ」と口にする。
そして、しょっちゅう「家に帰る」と家にいるのに言い出す。
大好きな読書、慣れ親しんだ本、家族、自分の身体。
あらゆる対象がどんどん遠くなってゆくことは「旅に出て、家から離れていく」感じに近いものなのかもしれない。
センチメンタルジャーニーなどは物理的に自分の身体を移動させることで、自分の心を奪った何かから心を引き離し、身体に心を戻すためのものだけれど、認知症は逆だ。
心を身体からゆっくりゆっくり離す、決して戻ることのない最後の旅だ。
そんな父に、それぞれに誰かとの「心の遠さ」を抱えて悩む家族たちはぽつりぽつりと自分の話をする。
「遠いのはさみしいね」と長女の息子が言う。
「つながれない」と次女が言う。
「うまくできない」と長女が言う。
できたばかりのガールフレンドに悩む孫。
恋人にいつも振られてしまう次女。
家庭がうまくいっていない長女。
なにもかもがわからなくなっている圧倒的な遠さを持つ父にだからこそ、話せることがあるのだ。
もちろん、父は話を正確には理解はできない。
大脳新皮質では。
大脳新皮質とは言葉や統合的思考や判断を司る、進化の歴史的には新しい脳の部分だ。
しかし、生きている限りは古い脳と呼ばれる部分が担当する反応や反射はまだ動いている。
実際、一番、最後の長女の話には父は何も言えない、言わない。
しかし、スカイプ通話の画面の向こうの長女が泣きながら話していると、父もだんだんと泣きはじめる。
それは理解を超えた部分、自分を超えた部分、無私無我の境地で泣いているのだ。
本能として、目の前の人のかなしみやつらさに感応して。
それはもはや、父娘だから、ではない。
人と人だから、という境地だ。
父は厳格な人だった。
校長先生にまでなるくらいに。
娘たちには自分と同じように教職について欲しかったらしいことがシーンの端々から感じられる。
だからこそ、娘たちはうまくいかない家庭に悩むことや料理人を目指すことを「父みたいに立派ではない」と感じている。
けれど、エゴとも呼べる思いや欲やプライドすらもなくなった父は料理人を目指す次女を真剣な眼差しで立派だと言う。
泣く長女と共に泣く。
孫に漢字マスターと呼んでもいい?と聞かれても好きにすれば?と言う。
昔だったら怒ったりしたかもしれないのに。
人は近いものはよく見えないし、わからない。
例えばそれは家族、例えばそれは当たり前に電車が今日も来ること。
だからこそ、自分の期待通りではないといらつき、悲しみ、呆れ、あきらめたりもする。
でも、人は不思議と何処かの国で電車が止まったニュースを聞いても、全く知らない人同士が揉めていても「みんな大変だな」と冷静に思うくらいだ。
遠いからこそ、冷静に受け止められ、優しくなれるのだ。
自分から遠ければ遠いほど、心理的な投影が働かないから、優しさだけが残る。
だから、遠い優しさは条件つきではなくなってくる。
遠いからこそ純粋で、無垢な優しさとなる。
そして、それは不思議と人の心に迫る近さと強さがある。
逆に、近い優しさはしてあげたんだからしてくれて当然でしょ?みたいな傲慢さと欲にまみれている。
それは不思議と人に断絶感を与える。
父が長いお別れのなかで家族に最後にプレゼントしたものは遠いからこそ近く強く優しい、人が原初的に持つ愛だったのだと私は思う。
それは自分が誰だかわからなくても、目の前の人が誰だかわからなくても、人が持ちうる、そして、与えることしかできない愛なのだ。
監督は「湯を沸かすほどの熱い愛」と同じ。
私はこの2作しか観たことはないが、同じテーマで制作しているようだ。
この人もまた、ある種の遠さを抱えた人なのだろうと私は思う。
こういう人はたまにいる。
そして、私もまた、そんな気配を観測できるくらいには遠さを抱えている。
彼がなぜこうした作品を作るかにはおそらくふたつの意味がある。
物語自体に含まれたものを伝えたいから。
数少ない遠さを抱えた人たちに、遠いから作れる作品、遠いから出来ることもあると伝えたいから。
きっと伝わっている。
素敵な映画だったなあ。